昭和42年02月01日 月次祭
今晩、夕食の後で御座いました、今日はあの、秋永先生とかそれから古屋さんとか、朝から現場に見えておられました。高橋さんも今日は当番で見えておりました。3人一緒に帰って見えましたから、一緒にお食事させて頂きながら、それにあわせてから、色々現場のことに付いての話し合いがあっておりました。特にあのうたまたま私の部屋の入り口、丁度住宅の方から、こう参りますとそれからこちらの方から参りますとは、三叉路になった所があるそれがこう高いんですねですから(?)かけられない。
大体言うたら、あすこ上から少し降りて来て、扉でもしなければいけない所ではなかったかいう、そのことを私は申しましたんです。したら、古屋さんが、あすこはどうでしょうかね。この位ばっかりのこう、押したらスッとこう入る、こう姿が見えなくなるだけのこう、開き戸にね、こう手をつけられたら、どうだろうかという訳でした。そしたら、秋永先生と高橋さんがもうほんと一緒でした。
「あ、そう云う事は、先生は好きなさいません」とこう言うた。私好かんのです。ね。ですから、あのあんた達はどうしてそげん分っとるのと言うてから、笑った事出御座いましたけどね。そう云う事は先生が好きなさる、是ならまあ絶対喜びなさると。私このへんの呼吸というかですね、このへんの交流というか、信心は是だと思うんです。私共が、神様と私共の交流は是なん。
どういう信心をさして頂きゃ、神様が喜んで下さるじゃろうか、という人はあるけれども。なら、こういう信心すりゃ、間違いなしに喜んで下さると云う事をです、自分で分らないと云う所。そこに私共の少し工夫がいるというじゃなかろうかと、こう思うです。高橋さんと秋永先生。そう言う風なつは好きなさらんですばいち言うちから、ま一緒にに(?)です。私も又それそれそれあちゃ。
見えさえすればいいというものじゃあない。そこは(?)気分なんだと。どうして、なら秋永先生が、高橋さんが、私の心の中に入っておる様に分かることだろうか。いうならば、痒い所に手が届く様なとは、そう言う様な事ではなかろうか。痒いと言やすぐ掻いて下さる。けれども、あられんとこどん掻きよる。ああそこじゃなかたいち、却って歯がゆい思いをする様な事ではなくてです。
「そこそこ」とこう言う様な所を掻けれる様な私と。神様が私どもに何を求め、どうあって欲しいと願うておられるか。(?)分かっとる、分かっておるけれども、そん(?)。あれは、実意を欠いた姿ですね、横着な。神様がこうあれば喜んで下さると。それがね、努めておるけども、努めておるけども出来ないというのならば、是は可愛いですね。こう神様が私を求めて御座る。
だから私もそうありたいと願っておる。切実に願っておるけれども、中々それが出来ない。倒れ転びしながらそれに近づこうとしておる、精進、努力というものは神様が喜んで下さる。ね。ですから、ここんところがですね、私がどう求めるかと云うことが分かる為には、私と高橋さんって言うんでしょうか、言わば、秋永先生とがどう言う様な、その、いうなら交際を続けておるかと。
神様が何を私に、求めておいでられるかと、云うことが分かる為に、いかに神様と私どもとの間に、それをお互いが、願い願われる中にって居らなければ、ならないかと云うことなんです。天地の親神様のお働きが、私共の上に現れる。神の願いが地上になる。と云うことは、神の願いが、私共氏子一人ひとりの上に、成就して行くと云うことなんです。そこで私は思うのです。
こう言う様な思い方、こう言う様なあり方にならせて頂いたら、神様が間違いなしに喜んで下さるだろうと言う様なことを、皆さんも考えて頂けたら、私もまあお話しながら自分の気付いた所をお話ししてみたいと思う。何時で御座いましたでしょうか。もう半年も前だったでしょう。丁度杉山三男さんが当番で参って見えました。それで私は何、何とか(?)なんかで用があって、行かなければならないことがあった。
それでその帰りにあすこは三本松通りですか、の何とかというあの古物屋ですか、何とかと言う古物屋でしたね。うんあん時にその車が大きいもんですから置く所がないんですよ。それでそのお店の前に置かれませんもんですから、ある薬局の前に停めたんですそこが案外空いてたんで。そして私共、用を済ましてから、そこへ参りましたら、薬局のおやじさんが表出て待って、私共帰って来るのを待っちゃる。
あんたどんばかりゃ断りもなしで、こげなところに置いてから、一言くらい断り言わじゃこて。ひとん方の店ん前にこげん置いてから。店ん前ちゅうてからもん、店の前でもなか、店に入られん、というのでもなかったけれども、やはり平謝りに謝って。どうもすみませんでした。済みませんで済むもんか、そりばってん、ああた済みませんち言う外なかけん、本当どうも済いませんでした、て言うてから。
まあ私共は、ま、いうなら逃げる様にしながらま、その、帰っ来たことがあるんです。そして私車の中でですね思うたことです。私ならあん時どう言うただろうか。いや私なら、どうも言わなかっただろうと、こう思いました。皆さんならどうですか。神様はですねそういう時に一口なっとん言わにゃおられんという、そういう所が神様がお嫌いの様で御座いますね。一言(?)多い(?)邪魔になる所に。
というのではなくてです、あすこに置いてるんだからやっぱりどこも止める所が無かったからもうよくせきなことであったろうとね。あんた私どんにだまって止めてから、と例えば言うとが当たり前と言う様な人は、あたしゃ神様に好かれんと。これはまだ若先生が、こんなに小さい時でした。引き揚げて帰ってすぐだった。何を(?)。(自転車?)がこの人を、ちょうどそこかけて(?)、かけて言いよったら。
勝彦がちょうど出て来たのと自転車が勢いよくやって来るのが一緒だった。だから、まるで、私の目の前で、こうやってしいて行った。もうそん時にですね、私はもう一番始めに、直感したことでした。もう飛び降りてから、はあ、はあどうかしなされたじゃろうかて言うてから、驚いとりなさるのを見とってですね、はあどうも済みませんというのが、一番くちでした、私はほんとに。
それから近所のおっさんが出て見えてから、自転車ばこうやってハンドルば(?)握っておりますもん。それで私がその自転車の方にいいえもう私し方が(?)連れて来てからどうも、あの済みませんでした、ああた急ぎよんなさっ所済みませんでしたて言うて、行って貰うたんです。そしたらその人が捕まってましてね、折角捕まえてやったとに、ち言うて腹かいて、そりゃその人にして見りゃ、やっぱそれがあるでですね。
どうかその。膏薬代なっとん貰わにゃそうです。けれどもですそういう時に私が心の中にですね。もう済みませんでしたの方が、先に出るんですね私は。お互い信心さして頂いて、限りなく美しゅうなろうと言う様な事は。そう言う様な事がです、自然に、まあ私のこと言うておかしいですけれども。私はそう言う風にだんだんおかげを頂いておるです。皆さんが、自分のここを神様が好いて御座るじゃろうと思うところを。
自分が持っておるならばです、もう本当に思うてみりゃ思うて見る程、自分の信心の詰らないと云う事がよう分かる。もう本当に分かるけれども、是だけは神様が愛でて下さっておるだろう、喜んで下さるだろうというものを、自分の心の中に持っておるならばです。それを愈々私は他のことはでけんけれども、是だけは伸ばして行き本当なものにして行くという、私は精進が必要だと思うのです。
今朝からの御理解の中に教祖の神様のご伝記の中に、ご晩年の頃沢山のご自分御一生の事を書き留めよと言われて書き留められた、お手控えがある。そのお手控えをお繰りになられてから、どうして此の様な事が出来て来たであろうかといいうて、感涙にむせんでおられる所が御座います。ありゃあの一場面であっただけではなかろう、何時もそうであっただろうと。無学の百姓の何も分かりません私。
今(?)神様此の様な広大なおかげを下されて、有り難い。どうして此の様な事が起きて来たであろうか、どうして此の様な、有り難い事に成って来たであろうかと、感涙にむせばれたと言う事である。お二人のお子様が一緒に病気に掛られた、大変な状態である。それこそ、まあだこれというて、その特別に信仰なさっておる訳じゃないけれども、とにかく、信心好きである様な事は間違いないのですから。
どこん何々様どこのお宮様と、もうそれこそ、あちらこちらにお参りをされては、祈願をなさったんです。けれども、養生の甲斐もなしにお一人の方は亡くなられた。他では、で、一人のお子さんはお助かりになられた。そういう時に、教祖の神様がどういうような、その、いわゆる姿勢を取っておられるかと云うこと。生き方。おかげを頂いてから、あんたのおかげで子供が助かりましたと云う事を。
その当時のそこのお宮の神主さんを呼んで、いわゆるお礼のお祭りをしておられます。そしてその時分の、としては、あぁ相当の金額である金額とお米とを、そのお礼に奉っておられます。一人の子供が亡くなくなりましたのは、どこまでも私の不行届きである。私の信心不行届きの為にというて、其処ん所はもうお詫びお詫びし縫いておられます。そう言う様な教祖の神様の、いわゆるあられ方。
教祖のご伝記を紐解けば、そう言う様な教祖のこの生活に対する所の、あられ方というものがです、もう実にその実意を極めており、丁寧を極めておるので御座います。そこに成程、天地の親神様がお動きになり、なられた筈だと云う事です。神の言う事を聞いてくれ、神を神と用いてくれて有り難いて言うて、神様がお礼を申しておられる。まあだ俗信仰の弟様が、神懸かり的なその、状態になられた時分に。
その、神様が教祖の神様に、借金払いをしておあげになられた。家を綺麗にしてあげられたりされた、その事に付いてですその事をなさっておられますその教祖の神様に、そう言う風に言うておられます。神を神と用いてくれ、神の言う事を聞いてくれ、神を神と立ててくれ。私どもの信心の意味もです神を神と用い、神を神と立てて行く所の信心がなされていかなければならん。
年寄り子供を大事にする人は神様に好かれると、という御教えがあります。カレンダーに書いておられますね。年寄り子供を大事にする、そういう人は神様に好かれる。もう年寄りと一緒に暮らすとも嫌。こりゃいよいよ神様に嫌われる心ですよね。もうあの皺の寄ったつを扱うと気色の悪かて。もうその点私はほんとのおかげを頂いておる。私はもう年寄りの方が参ってみえてお届けするというの、かえっておりますとですね。
何かその手を握ってこうして、擦ってあげたい様な、その情感が起こって来るんです。もう是はほんとに皺がですね、もうそれこそ、どのくらいの長い間、働いてみえられた手やら額やら分からぬ、もうそう言う風に思う訳ではないけれど、とにかくその、そんな感じがするんですね。皆さんの心にそういう心もなかろうけれども、ほんとにあの年寄り、子供が好きにならにゃいけませんです。
そういう心の状態にならなければいけんのです。神様に、好かれる心というのは、まだ色々ございましょう。神様にまず、好かれる私にならせて頂く事に精進する。そしてその神様に、いよいよ接近さして頂く、近づかして頂く。そして自ずと、神様の心がこちらへ伝わって来る。神様の心が伝わって来るところにです、私共が言わば、神様の心の中に入った様に、神様が今。
何を思うて御座る神様が今何が、あぁ求めて御座ると言う様な事が分かって来る。それにお答えする、それに立ち上がらして頂く、信心さして頂くところにです神様とのいよいよ、交流が始まると、私は思うです。神様に好かれる心の中にはあの神様の前に従順、素直になると云う事。あのそばに今日あの今日ではない、この頃からあぁまあほんとにどんなに贔屓目で見ても上手とは感じない字でここに書いて御座います。
素直に神様にお頼みしようと云う事が。ところがですねもうあれを見てからほんとに親先生がいつも素直素直と、こうやって言われるけれども、ほんとにあのあの塗版を見てからですね、ほんとに自分の素直さが足りなかった。こりゃ素直にならにゃいかんと思いましたという人がいくらもあったんですね。ですから綺麗な字とか、綺麗な文章というだけじゃないごとあるですねえ。でそん中に(?)なかったでしょうか。
ほんとに素直、「素直心の一つにて雲の上までのぼる道あり」と仰る。いわゆる神様といよいよ交流が出来れる。神様の位に昇って行けれる様な道があるのです。私共そこんところを大事にしていかな。もう、うちの子供ばっかりはどうした素直じゃないじゃろうか。と思うたとたんに、私自身が素直じゃなかった事を、(?)とたんに気づいた。今日はあの、鳥栖の上野さんが参って見えられたね。
もうここ日々、もう、小学校の4年生、5年生ですから、(?)。ね。もうどうして何時もこん、紀子さんて言うて、紀子ばっかりはもう言い訳ばっかりしてから言う事聞かんち言う事、もうそれ今日は一番口にそれを、神様に今日はお願いしようと思いよった、心ん中に。どうかここに来た途端にあの、素直に頼もうと云う事を聞かせ、あ、見せて頂いた途端にです。
ほんな事、もうその、紀子が素直じゃない、じゃないのじゃない、私が素直じゃなかったと云う事に気付かして頂いた。もう子供の事を願う前に、自分の事を願わなならん事になって来た。と言う様な心に、神様が喜んで下さる。いよいよ素直にならして頂きゃ、もういよいよ神様との間の交流が接近して行く、近づいて行く。昨日、一昨日でしたか、佐田さん達が夫婦で、夜のご祈念にこう参って見えられた。
あちらご承知の様にまあほんとに信心一家で御座いますけれども、ご主人も中々忙しい仕事をしておられますから、まあ、夜のご祈念に参って来ました。それでほんとにおかげを受けられるんですねえ。だって素直なというのか、神様なんか好かれる様なものを持っちゃる。この丁度年末でした。先生、スルメが大量に、その、大きな乾物の問屋さんですけれどね、スルメじゃなかった、ああやっぱスルメだった。
所が神様がその、「買わんがよかろ」ち云う事だった。どんなに考えたって、先生その、年末にですね、乾物屋にスルメのそのよか幸いに仕入れられるのですから、もう是から手が出るごと欲しいとです。そりゃ神様にま一時見合わせときなさい。たら、見合わせておられた。所が、年末になってから暴落したんです。もう恐らくあの、正月なってからスルメが暴落したち云う事は初めてだったろう。
新聞の中のスルメは高値と云う事書いてあったけれども、実際は暴落だった。ですから、その差というのは大変な、その事であったと、こういうので御座います。買わんでおって良かったと云う事です。昨日一昨日もそうでした。この頃からその、時期ですから、ワカメのシーズンですから、ワカメの仕入れさせて頂くと言うお届けがあった。所がその、それもまあ仕入れんがよかと。
それこそもう、支配人の方がですね、もう是ば買わんち云う事がありますもんかい、と言うてその、買うただけは損だったち(苦笑)言う様な事が、良くあるんです。で。此れからも大将が言いなさとるとをその、矢張り、(?)と言うて、まあ支配人の方が私を見直してくれたという事を言うておられました、ね。今度はそのワカメだった。こりゃやっぱり買いたい、仕入れたいという品物であったと。
所がそれから暫く経ちましてから、5・6日前。ある大きな都市の大きな乾物屋が破産したと、倒産したんです。それからそのイリコと、そのワカメとを大量にですね、あんたんとこに仕入れてくれないかと。しかも(?)。ねえ。例えばあの神様の心任せになると云う事が、私おかげ頂く事だと思うんですね。ね。そしてその先にですねもぅその任せになってからも儲からなければやまんと言う様な事では、矢張りいかんですね。
そこがあの佐田さんの場合なんかは、大して私は信心がでけておられるとは思わんけれども、私は佐田さんに言うんです。あなたは確かに神様に好かれるものを持っておる。だから、あんたが垢抜けして行ったら、あぁたん方奥さん位はすぐもう追い抜く、今はそりゃ奥さんの方が先生ばってん。
けれどもほんとに、それこそ家内やらお母さん位の事じゃないあすこにほんとに、少しあのお熱心に、ご信心を頂かれるようになったら、いよいよおかげ頂かれるだろうと。神様にそのもう、交流するものを持っておる。神様に好かれるものを持っておる。ですから、その神様の方が、言わば働きかけ御座るさっさと。ですから、向こうの方から今度は働きかけれるようになる。
そこに好きつ好かれつと、云う事になってくる。いわゆる、神様が私に何を、それは教導という、その教導に、何を求めて御座るだろうかと、言う位の所にです、その事が明けても暮れても思われる様にならせて頂いたら、もう間違いなしに交流致しますね。それに佐田さんするだけの事ではない、一応は誰でもです、一応は誰でも、そういう神様の働きかけを頂くのです。
もうまして椛目にご縁を頂いておる人は、やっぱりそういうおかげの頂けれる人ばっかりなんだ。それがあの表面にこう現れておる人と、まあその内容に持っておられる人とが御座いましょうけれどもですね。ですからそこん所を私共がもういっちょ一つ詰めて行くと云う事がです、神様が我に何を求め給うておられるかと云う事をです、ま思い続けさして貰う。
例えばね、何時も金光様、金光様といってから、もうそれこそ金光様を言い続けておるというだけじゃいかん。神様が何時も私に何を求め給うておるかと。神様が私に何をどうあれと欲しておられるかと云う事を、思い続けさして頂けて明け暮れると言う様な信心になったら、私は神様の心が段々分かって来る様になる。段々分かって来る様になると、高橋さん秋永先生じゃないけれども。
そりゃ親先生は好きなさらんですよ、と云う事が分かって来る様になる。こりゃ中々ですねえ是は中々その出来ない事ですよ。こりゃ先生好みじゃろう、と言うて、その例えば、物を私に下さるとしてです。ほんとは私のこの心にピタッと合うと言う様なやつは、もう先ずないです。と言う程に、私は、まあ繊細な、ものと心の中に持っておるんです。その繊細な心が分かると言うのですから大したもんだと私は思う。
いや椛目には随分それが分かる人が段々でけて来た。出来たけれども、是を知らん顔しておるという人も沢山ある。も先生があれは好物だし好いておる事は分かっとるばってん、そう云う訳にはいかんち言う。まあ私ならそれでいいですけれどもね、それが神様の事とに成って来たらそれじゃ許されない。神様はこげな事好きなさらん事は分かっとるばってんと思うて悪い事しよる。是でおかげ頂ける筈が絶対ない。ね。
皆さんはどうですか。お話頂きながら、はあ、こう言う風なあり方になりゃ、あぁ神様が喜びなさる。それを自分でも体験しとる、自分で今思いよる。それならそれを、いよいよお育てになっていかなければいけません。なんか知らんけれど、もうほんとにあの、神様と絶えず交流しておると。絶えず神様とお話がでけておると、言う様な有り難い境地を開かして頂く為にはです。そこんところの私は精進が大事じゃなかろうかと。
神様は私共に、神様の方が何て言うんでしょうかね、神様の方がこうウィンクして御座る。それをこちらが知らん顔をしておる。もう佐田さんなんかの場合なんかは、もう確かに神様がウィンク御座るという感じですね。ですからほんとにいうなら神様が、私に何を求めて御座るかと。それをその間違いますとですねえ、あのやっぱいけませんですね。神様が私にお供えせろち言う思い御座ろち。
そすとやっぱり逃ぎゅごたる。誰でんお供えしゅうごつなかけんね。段々こう神様に近付きよっともうそれそこ、沢山お供えせにゃんごつなりがせんじゃろうかと。近付かせて頂きよると、段々有り難うならして頂いて、おかげを頂くから、大きな御用が皆さんで来ておるとですよ。ですからね、大きな御用の出来る人は、ほんなもう、親先生に近付いたけんしもうた、
神様に近付いたけんしもうたとはいっちょん思うてない、大きな御用が出来れば出来る程有り難いのだ。それがで自分がしよるとじゃない。神様がさして下さりよるとです。も神様のおかげ、頂かれようとしておるのにですね、もう神もう知らん顔し、頼む時だけやって来てから、そして他ん時は、知らん顔しとると言う様な人もある。こりゃも信心が分からんから、仕方がないけれどもです。
そう言う様な人達は一つ本気で、神様が自分達が求める物が、求める時の気持ちでです。神様は求めて御座る事を、一つ悟らして頂こうとする様な、信心になられたら、おかげが頂けれるだろうと思います。今朝の御理解、先程少し申しました様にです、ね、どうして、此の様な事がです、どうして此の様な事が、出来て来たであろうかと言うて、感涙にむせばる、むせばれる様な、おかげというものがです。
もうそれが一つ、雛型の様なものですけれども、私の場合にもそれが言える。ここ、こうしておかげを頂く様になって、16年間、それまで、何十年間に信心をさして頂いておったけれどもです、それはただ、お願いをして、おかげを頂いたり、頂かなかったり。神様の心なんか分かろうとも思わなかった。儲け出したら神様のほんと御用だけはさして貰おうと思いよった。
けれども、神様の願いはそんなもんじゃなかった。そしてギリギリの私というものを分からして下さって、ギリギリの神様の働きが、それが分かる、神愛と分からして頂くまでには、矢張り相当時間はかかったけれども、私はこの愛と云う事に付いて、最近感ずるんです。愛というのはですね、もう相手を喜ばせねばならんという心の様ですね。こりゃもう、親の愛だってそうです、恋愛だってそうです。
もう一切の愛という愛はです、相手を喜ばせなければおかんという、相手が喜ぶことを見て、自分も喜べれるという心、是が愛なんです。ですから、その愛の中にはです、ほんとに例えば、神様は大坪総一郎を有頂天になって喜ばせようとする働きがです。次々といわゆる七墓築く様なおかげに現れて来たんだと、私は思うのです。所がお互いがです、その七墓築く様な次々と難儀な事が起こって来ると。
どうした事であろうかと云う事になるです。是ではいよいよ、どうした事であろうかとなってしまいますから、神様のその、どうして此の様な事が起きて来たであろうかと。感涙にむせばれた教祖の神様の、ならご一生と云う事を思うて見るとです、まあ私の言葉でいうならば、その時その時を神様のご都合、神様のお心。いわゆる神様の神愛の現れとして、それをお受けぬいておられると云う事。
しかも、それは唯受けぬいておられるだけではなくて、人間凡夫の事で相分からず、何処にお粗末ご無礼があるやら分かりませんというて、平身低頭お詫びをしぬいておられると云う事です。そこに、私は教祖の神様のご信心があったと思うのです。ですが皆さんがです、ほんとにどうして此の様な事が起きて来たであろうか、夢にも思わない様なおかげが現れて来る様に、段々おかげを頂いて来ると云う事。
この前から申しておりますし、いわゆる天衣無縫のおかげ、もう無尽蔵に限りなく、おかげの頂けれる様な、おかげを頂かせたいという神様の思い。そういう愛の現れがです、私共の行く手に様々な難儀と見えて来る所の姿であるんですから。そこんところを分からせた頂いた心。そこんところを神愛と分からして頂く心、そういう心が分かって来る時にです、神様はいよいよ、( 沈 黙 )いや。
神様の心に私共が入っていた様な事になって来るんではなかろうかと、こう思います。神様の願いに答えさして頂けれる信心。それには先ず、私共がです、ほんとに、神様が今何を私に求め給うておるかと云う事がです、もうよう分からして頂けれる所まで神様に接近しなければ、それは分からない、(?)分かる事じゃない。時々来てから、ちょいと機嫌取らな信心すると云う事ですから。
親じゃにこにこ笑うてからはあ、おかげ頂いたというて、神様言いよるなさるごたるけれどもです。笑いは、それこそ痒い所に手が届かん様なはがゆい思いを、もどかしい思いを、神様にさせておると云う事を思わなければならん。神様が本当に、もうようやく私のそげな心まで、あんただん分かっておってくれておるかと、言うて下さる様な所からです、また氏子の心の奥の奥までです
、いや、夢にも思わなかった様な事の上にまでです、神様のお働きが始まると云う事を感じたのです。どうぞ、今日の御理解の中からですね、一つ私しの私しの気持ちを分かって頂く様に、というてもすぐおかげ頂くと思うんですけれども、私の信心を通してです、神様が私に何を求めておられるか、神様の心の中に入った様に、自分が神様の事が詳しゅうなるおかげを頂く為に、もっともっと信心修行の上に、信心の勉強の上に、おかげを蒙らなければならんと思うので御座います。
どうぞ。